「有森!」
先に気付いたのは達彦だった。駆け寄る桜子。
窓から身を乗り出す達彦だったが、すかさず乗車口まで駆け出す。桜子も後を追う。
二人は会えた。
達彦は、桜子に感謝の言葉を述べた。
「ありがとう。」さらに達彦は続けた。
「無理するなよ。」
店の事を色々気遣ってくれた桜子への、感謝の言葉だった。
汗まみれの桜子の顔が、笑顔でいっぱいになった。
「店の暖簾を守るなんて事、考えなくていい。」と言う達彦に、判っていると答える桜子。
でもそうじゃないのだ。
伝統とか、そういうのじゃない。
山長に出入りするようになって、いろんな人と交流を持ち、桜子は成長していたのだ。
「家族が増えたみたいで、皆が自分にとって大切な人なんだよ。」
大切な人の為に頑張っただけ、という桜子に達彦は、「そうか。」と言って頷いた。
達彦は桜子に、ひとつの頼み事をするのだった。
「何?」と問う桜子に、達彦は言うのだった。
「"さくらこ"って呼んでいいか?」
達彦の、あまりにも可愛く、ささやかなお願いに、桜子は大きな笑顔になった。
「そんなお願い?うん、いいよ。」
「桜子。」
少し躊躇いがちに、桜子の頬に触れる達彦。
桜子は、達彦の大きくて繊細な手の感触を頬に感じていた。
かつては、ピアノのライバルとして競い、今は愛する人の温かな手。
列車が動き出した。列車と共に歩く桜子。
「元気でな。」
達彦は、精一杯の言葉を探していた。
達彦の目を見つめる桜子。
「達彦さんも元気で。」という桜子。達彦の目が涙で滲む。
徐々に列車の速度が上がる。それに合わせて、駆け出す桜子。
「おふくろを頼む。」
達彦もまた、駆け出す桜子をじっと見つめる。
「わかった。」走る桜子。
走って、走って・・・ついにホームの端に着いた。もうこれ以上走れない。
達彦は声を振り絞って、全力で叫んだ。
「ピアノを忘れるな。」
「え?」桜子は聞き取れなかった。
「音楽を、忘れるなーっ!」
達彦の、桜子への心からの願い。
大きな声で叫ばれた"音楽を忘れるな"という想い。
その想いは、今度は桜子に届いたのだった。
桜子は涙で溢れる瞳を拭おうともせず、達彦の乗った汽車を見送っていた。